・1850年〜1860年 |
ロマン主義の時代に、それまで30人〜40人で構成されていたオーケストラの演奏者数は100人を超える大規模なものへと変化しました。 |
1853年:カール・ベヒシュタインは、フランスやイギリスのピアノ製造の秘密を探る中、音楽家たちがしっかりとした技巧的な演奏とデリケートなタッチに適応するグランドピアノを探していることに気づき、この年彼はドイツ・ベルリンでピアノの製造を始めます。
その熟達した専門的な技術と音楽の傾向を読む優れた感覚により、ベヒシュタインのコンセプトとアクションは作り上げられました。その結果ピアノフォルテは革命的に改良され、音楽表現の方法として最も重要視される楽器になりました。 |
1857年:後に初代ベルリン・フィルハーモニー常任指揮者となるハンス・フォン・ビューローが、ベヒシュタインのコンサートグランドを使用して演奏を行いました。その後、ビューローは、ベヒシュタインの楽器の強力な代弁者になります。 |
1862年:ベヒシュタインはロンドン万国博覧会で金メダルを獲得します。審査員たちはベヒシュタインの楽器の特徴を「鮮明で自由な音色、快適なアクション動作、各音域の優れたバランスと耐久力を持つ楽器」と賞しました。 |
・1870年〜1889年 |
この時代は、ヨハネス・ブラームスやピョートル・チャイコフスキー、その他の様々な国民楽派の作品のように豊かで力強く、絢爛豪華な音楽が作られました。 |
1870年:1870年から1890年にかけて、ピアノの輸出量が急激に増大します。主な輸出先は、イギリスやロシアでした。年間製造台数は500台に達し、グランドピアノは3000ライヒスマルクで販売され、総売上高は100万ライヒスマルクに達しました。 |
1880年:カール・ベヒシュタインは、ベルリンのグリューナウアー通りに2番目の工場を建設します。またデムリッツ湖の近くに別荘を購入し作曲家やピアニストたちの交流の場になりました。オイゲン・ダルベールはここで「ピアノ協奏曲
第1番 ロ短調 作品2」を作曲しました。 |
リストハウス(ワイマール)のベヒシュタイン |
・1890年〜1909年 |
1900年まで、世界中の芸術家は新たな表現方法を捜し求めていました。アルノルト・シェーンベルクのような作曲家は、正統派ではないハーモニーや音を求めていましたし、またフランスの作曲家クロード・ドビュッシーは、東洋的な音楽に心を奪われていました。このようにして、音楽においての印象派のスタイルが形作られていきました。
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1892年:ベルリンのベヒシュタイン・コンサートホールが落成されます。ベルリン・フィルハーモニー主席指揮者であるハンス・フォン・ビューローがヨハネス・ブラームスとアントン・ルービンシュタイン参加の下に行われた3日間にわたる音楽祭に出席します。ベヒシュタインは非常に高度なピアノ製造技術のスタンダードとなり、多くのコンサートステージにおいてたちまち観客を心酔させました。 |
1897年:ベルリンのクロイツベルクに更なる工場の建設。 |
1900年:類稀なる功績を残し、この年カール・ベヒシュタインの生涯に幕が下ろされました。息子のエドヴィン、カール、ヨハネスが父親の会社を引継ぎます。 |
1901年:ロンドンのウィグモア・ストリートにベヒシュタイン・ホールをオープンし年に300公演のコンサートを提供していました。しかしながら第二次世界大戦中にイギリス政府にホールは接収、競売され、ウィグモア・ホールと改称されました。
Bechstein back atWigmore Hall
※現在は〔Wigmore Hall〕レーベルのライブ録音CDで音質の良さに定評のあるホール |
1903年:創立から50年ベヒシュタインの社員数は800人に上り生産台数年間4500台に達しました。また、パリの中心街にあるサン・トノレ通りに支店を設けます。 |
・1910年〜1929年 |
伝統的な交響曲の構成は、時間と共に少しずつ変化をしていっているにもかかわらずグスタフ・マーラーやドミートリイ・ショスタコーヴィチのような交響曲の巨匠たちを惹きつけてやみませんでした。しかし、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、その長く経験豊かなキャリアの中でさまざまな音楽と楽器のアイデアを試しました。
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1919年:ベヒシュタインはおよそ1100名の社員を抱え年間5000台のピアノを生産しました。戦後のインフレによりアップライトピアノは25000ライヒスマルクで販売され、一番小さいタイプのグランドピアノは、30000ライヒスマルクで販売されました。顧客との継続的な契約を得るために、楽器は得意先に無料で譲渡されていました。また、カール・ベヒシュタインの息子たちの間で衝突が発生したのもこの時期でした。 |
1923年:ベヒシュタインは、この年に株式会社になりました。輸出事業は関税の引き上げにより横ばい状態になりました。アメリカ市場は有名なウォナメイカー・デパートがベヒシュタイン・ピアノの売り込みに積極的だったにもかかわらず、ほとんど手の届かない領域になってしまいました。またかの有名な大西洋航路定期船やツェッペリン式飛行船にも豪華なベヒシュタインピアノが備え付けられていました。この年ベヒシュタインはバルセロナ万国博覧会に出展しましたが楽器を購入できる人はほとんどいませんでした。 |
・1930年〜1949年 |
多くの20世紀の作曲家たちが新しい様式の音楽を生み出そうとする中、ジャコモ・プッチーニやセルゲイ・ラフマニノフなどの作曲家は伝統的なクラシック音楽に誠実であり続けました。 |
1930年:ベヒシュタインは常に前進し続ける会社としてピアノ製造の可能性を広げるために、努力を続けます。またシーメンスとノーベル賞受賞の化学者ヴァルター・ネルンストとの共同で世界初となる電気ピアノを生み出しました。この精巧なネオ・ベヒシュタインは後にアジアの製造業者が発展させたサイレント・システムの先駆的な楽器となりました。 |
1932年:大恐慌時代、大幅な値下がりと生産数の低下を余儀なくされたベヒシュタインはカール・ベヒシュタインの相続者同士の争いもあり低迷します。また、反ドイツ感情の高まる中、外国向けの活動も制限され、同時にナチスの冷酷な迫害により移住を強制されたユダヤ人の顧客を大量に失ったことも会社に打撃を与えました。当時、ベヒシュタインの楽器は、教養の高いユダヤ人家庭で愛用されていました。 |
1945年:第二次世界大戦中、イギリスとアメリカによる爆撃により、製造設備が破壊されます。ベヒシュタインは、アメリカの統治区域に置かれ、合衆国政府に接収されます。 |
1950年〜1969年 |
1960年代、ベトナム戦争に対する反戦音楽はアメリカの文化に影響をもたらしました。この時代に作られたロックの多くが、社会に対しての不安や反抗、セックスやドラッグをテーマに作られました。 |
1953年:ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとヴィルヘルム・バックハウスの下、ベルリン・フィルハーモニーがベヒシュタインの創立100周年を祝いました。その後、セルジュ・チェリビダッケやレナード・バーンスタイン、ホルヘ・ボレット、ヴィルヘルム・ケンプなどが好んでベヒシュタインを使うことになります。 |
1954年:ベヒシュタインは南ドイツのカールスルーエとエッシェルブロンに新しい製造施設を作ります。1960年代、ベルリンの壁の建設による人口減少の影響をベヒシュタインも受け、この時期の年間の生産数は1000台のみにとどまりました。またドイツ駐留アメリカ軍当局はドイツ国内において意図的に自国の商品を優遇していました。 |
1963年:アメリカのボールドウィン社によりベヒシュタイン株が買収されます。アメリカ企業の経営の傘下に入ったことで、ベヒシュタインは市場の信頼を育むのに欠かせない厳密な経営をすることが困難になりました。企業家的な献身や主導権の欠損はその後数十年に渡って会社の活力を奪うことになります。 |
・1970年〜1989年 |
作曲家であり、ピアニストであり、指揮者でもあるレナード・バーンスタインは、20世紀を代表する偉大な音楽家の一人であると同時にまたベヒシュタインのファンでもありました。バーンスタインは、アメリカ人として初めて世界的な名声を獲得したクラシック音楽家で、特に「青少年コンサート」で有名なニューヨーク・フィルハーモニックでの指揮と、映画「ウエスト・サイド物語」などの作曲活動で知られています。 |
1978年:シューラ・チェルカッシやクリスチャン・ツァハリス、アルフォンス&アロイス・コンタスキーなどがベヒシュタインの創立125周年を祝いました。また多くのジャズピアニストがベヒシュタインの仲間に加わりました。 |
1986年:価値観が変化する中、ヨーロッパでのグランドピアノの販売は厳しいものになっていきます。ボールドウィンはこの年ベヒシュタイン株をドイツのピアノ・マイスターであり企業家のカール・シュルツェに売却しました。この新しい経営者はブランドの名声を取り戻すこと、会社を強固な物にするという明快な経営戦略を展開させます。
新しい経営方針は、創業当時の構想をよみがえらせ、音響の世界において不可欠であった自社の重要な役割を認識することに根差しています。ベヒシュタインは、新しい製造工場をベルリンのクロイツベルクに移し、またベルリン拠点のピアノ会社オイテルペ(Euterpe)とホフマン(W.Hoffmann)の経営権を買い取りました。しかしながら、この年の生産量は全世界で40%落ち込みました。 |
・1990年〜2000年 |
20世紀の偉大なる作曲家たちにより生み出された沢山のテクニックが、後にビートルズやピンクフロイド、ローリングストーンズなどのポピュラー音楽へと移り変わっていきます。ベヒシュタインは、彼らが作曲を行う際によく使われていました。 |
1992年:ベヒシュタインはザクセン州ザイフェナースドルフの小さな町にあるザクセンピアノ工場を買い取ります。ここに150万ユーロを投資し、極めて質の高いグランドピアノとアップライトピアノの製造プラントを設けました。伝統的な手工業と最先端の技術が融合されたこの夢のような工場への投資はドイツ国内においての会社の未来を確実なものにしました。 |
ザクセン州ザイフェナースドルフの工場 |
1996年:ベヒシュタインは株式を一般に公開しました。このステップはベヒシュタインの株式会社としての歴史を新たなものにしまたグローバル化の進む市場を見据えたものでした。企業としてのベヒシュタインが目指すものは単なるビジネスの成功だけではなく、芸術や文化の保持と発展に寄与することです。 |
1999年:この年ベルリンに最初のベヒシュタインセンターがオープンしました。増え続けるベヒシュタイン及びベヒシュタインブランドの商品を洗練された空間でご覧頂くために、2006年までにデュッセルドルフ、フランクフルト、ケルン、チュービンゲンミュンスター、ハノーバー、ハンブルクのドイツ国内の8ヶ所にもショールームを開く予定です。また、オランダのウールデンにもベヒシュタインセンターを開きます。 |
ベヒシュタイン・ベルリン本社ショールーム |
・2001年〜 |
ベヒシュタインのピアノは20世紀のポピュラー音楽において大変重要な役割を担ってきたにもかかわらず、人々の記憶の片隅に追いやられてしまいました。ロンドンのトライデント・スタジオのベヒシュタインのグランドピアノは、皆さんを驚かせるような経歴を持っています。例えばビートルズは「ヘイ・ジュード」や「ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)」の中のほとんどの楽曲を、このピアノで録音しました。また、エルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイやフレディー・マーキュリーもこの楽器で演奏を行いました。 |
2003年:会社の将来の展望を慎重に考慮した結果、ベヒシュタインは韓国の楽器製造会社サミックとの資本提携を行うことになりました。サミックは、重要な海外市場のマーケティング業務を引継ぐことになります。この展開によりベヒシュタインは世界市場の需要を満たすことを可能にし、また相乗効果で多くの利益を生むことを期待します。またソウルにもベヒシュタインセンターを開き、アジアやアメリカ・ヨーロッパ各国にも新たにセンターを展開しました。 |
2004年:2004年11月から2005年7月の資本の増加に伴って、サミックのベヒシュタイン株の保有割合は39%に縮小しました。この資本増強は、互いの合意のもと行われ、フリーフロートの増加へと導きました。 |
2005年:ベヒシュタインとサミックは中国の上海に共同事業としてベルリン・ベヒシュタイン・ピアノ(上海)会社を設立しました。この上海の浦東地区にできた新しい工場では中国市場向けの低価格帯のピアノの製造を行いました。 |
2006年:ベヒシュタイン社の役員であるキュッパーとシュルツェがサミック社の保有するベヒシュタイン社の残り半分の資本を譲り受ける決断をしたことによって深い信頼関係にあるベヒシュタイン社とサミック社のパートナーシップは、より強調されることになりました。また、ベヒシュタインセンターのモスクワへの展開が計画されています。質の高い芸術・文化活動を行うことはベヒシュタインセンターにとって欠くことのできない最も重要な役割です。数年間に及ぶ良好な協力関係の結果、ボヘミアピアノ・イフラバと新たな戦略のための提携が結ばれました。チェコのベヒシュタイン・ヨーロッパでは、ホフマン・ブランドが製造されます。 |
ホフマンを製造するチェコの《ベヒシュタイン・ヨーロッパ》 |
・2009年〜 |
2009年:ベヒシュタインは中国市場向けの低価格帯ピアノの製造をやめ、製造拠点をヨーロッパ内のみに限定しました。そして高価格帯ピアノ〔C.BECHSTEIN〕〔BECHSTEIN
Academy〕の2ブランドがドイツ・ザイフェナースドルフ工場で、中価格帯ピアノ〔W.Hoffmann〕がチェコのベヒシュタイン・ヨーロッパで製造されます。同時に新しい設計による高品質の〔W.Hoffmann
TRADITION〕を発表しました。 |